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生まれ変わっても女性に|名前が残らなかった人たちのことを知って

夕暮れの川のそばに建つ藁葺きの三角の小屋。壁がなく屋根がそのまま地面まで下りている。中からあたたかい灯りがもれていて、右奥に神社の社殿と石段が見える からだと暮らし

いつもは温泉や体のことを書いているけれど、今日は少し違う話を書く。この夏に伊豆へ行ってから、ずっと考えていたことだ。

夫は歴史が好きで、大河ドラマをよく見るので、私も一緒に見ている。

そして時々、げんなりする。

親のために嫁がされ、夫が死んだら再婚させられ。自分の意志で動けないで、動かされていく。それを見ているのが、どうしても嫌になるのだ。

岐阜城で、夫は斎藤道三を熱く語る

夫は城めぐりも好きで、岐阜城にも行った。

斎藤道三の話になると、夫は熱くなる。油売りから国を取った男。下剋上。美濃の蝮。本当に面白そうに話す。

私は「この人がいらんことをするから、女の人が犠牲になったんちゃうん」と言い、

夫は「うーん」と唸った。

目線が違うから話が通じないなと思って黙るのだと思う

道三がしたことを、あとで並べてみた

言ったものの私は道三のことをよく知らなかったので少し調べてみた。

主君だった土岐氏を追い出して美濃を自分のものにし、娘を織田信長に嫁がせた。敵だった織田家と手を結ぶためだ。

そして家の中では長男を疎んじて、弟たちのほうを可愛がった。

その結果どうなったか。

長男が弟2人を殺した。そしてそのあと父である道三も討った。1556年、長良川の戦い。

家中の大半は息子についたそうだ。息子の兵が17,500、道三は2,700。

——やっぱり、いらんことをした結果だったと思った。

たぶんこう思うのは女性特有の目線なのだろう。ここが夫には理解できないところなのだと思う。

嫁がされた娘のことが気になった

信長に嫁いだ娘は、「濃姫」と呼ばれている。

これは本名ではなく「美濃から嫁いできた姫」という意味の呼び名なのだそうだ。「帰蝶」「胡蝶」という名も伝わっているけれど、江戸時代の書物に出てくるもので確かではないという。

そして——父の遺言に彼女のことは一言も出てこない。

信長に嫁いだあと記録が途絶える。菩提寺も戒名も分かっていない。

父のほうには「美濃の蝮」という異名まで残っているのに。娘には名前がない。

残っているのは、父の肖像を寺に納めたことだけ

彼女がやったこととして記録に残っているのは、ひとつだけだった。

父の肖像を菩提寺に寄進した。

——正直「うーん」と思ってしまった。

一生のうちで残ったのが父の肖像を納めることだけなのか。

私が知りたいのはそこではなかった。

この人は、どんな気持ちで一生を過ごしたんだろう

私が知りたいと思ったのは、彼女がどんな気持ちで一生を送ったのかということだった。

戦争の話でもそうだけれど、そこに生きている人は、悲観ばかりしているわけではない。

そこに生活があるのだから、笑いもするし、満たされる瞬間もある。

敵の家に嫁がされた娘にも、毎日があったはずだ。おいしいと思ったものがあり、笑った日があり、誰かと話した時間があった。

そして信念もあったのかもしれない。家を守るため、父を守るためという。

私にはわからない信念だ。でも、そういう心情も知りたいと思った。

一体どんな面持ちで、人生を送ったのだろう。

記録に残っていない生のその女性が知りたいと思った。

伊豆で政子の碑を読んだ

この夏、伊豆へ行った。帰りに夫が見たいと言って、源頼朝が流されていた蛭ヶ島公園に寄ったのだ。

▷ そのときの旅の話 → 犬連れで伊豆をまわった|中型犬3匹で入れた場所と、歩きにくかった道

そこで夫から北条政子の話を聞いて「結局この人は、男を見る目があったってこと?」

夫は「そういう事になるんかなー」と言った。

蛭ヶ島公園の「頼朝と政子 梛の葉の縁結び」の説明碑
伊豆で読んだ「頼朝と政子」の碑

でも、碑を読んだら少し違う気がした。

父が別の人に嫁がせようとしたとき、政子は祝言の晩に屋敷を脱け出した。そして伊豆山権現に逃げ込み、頼朝と夫婦になったのだそうだ。

男を見る目があったのもそうかもしれないが、自分で決めて選んだ人でもある。

あのとき夫は山を見上げて「この景色を頼朝も見ていたんやなぁ」と言っていたが私は、政子のことを考えていた。

昔の女の人のことを、調べるようになった

夫と大河ドラマを見たり、城をめぐったりしているうちに、昔の女性のことが気になるようになった。

名のある人というより、女性全体についてだ。

魔女。山姥。お岩さん。産屋。——自分に分かるところから、少しずつ調べていった。

そうしたら、思っていたのとまったく違う話が、いくつも出てきた。

男が山にこもると仙人、女だと山姥になる

まず、ここが不思議だった。

男が山にこもると仙人とか、山伏とか、天狗と呼ばれる。修行を極めた人という扱いだ。

女が山にこもると山姥になる。人を食う化け物だ。

同じことをしていてもだ。

幽霊も同じ。菅原道真は天満宮に祀られて学問の神様になっている。男の怨霊は神様になる。

お岩さん、お菊さん。女の怨霊は怪談になって退治される。

山姥の昔話を読んでみたら

複雑な気持ちで山姥のことを調べていたら思っていたのと違う話がいくつも出てきた。

金太郎を育てたのは山姥だという伝承がある。足柄山の山姥だ。ここでは化け物ではなく強い子を産んで育てた母として描かれている。

そして、これがいちばん驚いた。

山姥は山で子を産む。そしてお産に苦しんでいるところを助けてくれた人に福を授ける。——そういう言い伝えが、各地に残っているのだそうだ。

人を食う化け物ではなく山で子を産んで、助けてくれた人に礼をする女として語られている。

金太郎の父が誰なのかも伝わっていた。

ひとつは、赤い龍が夢に現れて授かったという話。

もうひとつは八重桐という女性が宮仕えをしているときに身ごもって、故郷に帰って産んだという話だ。相手の男は亡くなり、彼女は一人で山で育てた。

——一人で子を産んで、一人で育てた女の人が山姥と呼ばれたということになる。

山姥の亡骸から薬や金など人の役に立つものが生まれたという話もある。

民俗学には山姥は山の神が落ちた姿だという説もあるという。もとは恵みをくれる山の女神だったものが後の時代に鬼婆にされた。

名前が変わっただけで力はずっと同じだったということになる。

産屋を見に行った

産屋(うぶや)というものを知って見に行った事がある。福知山の大原神社のそばに残っている。

藁でできた三角の小さな小さな小屋だ。壁がない。屋根がそのまま地面まで下りている形で天地根元造という。日本でここだけの形なのだそうだ。

お産が始まると、夫が藁を12束かついで、妊婦をここへ連れてくる。うるう年は13束。——月の数だけの藁だ。

その藁を敷いて、7日間こもって産む。

布団ではない。藁の上だ。

入口は、大原神社のほうを向いている。産む人が神様に守られるようにという願いなのだそうだ。

この習わしは大正のころまで続いた。産んだあと3日3晩ここで休むという形は昭和23年ごろまで残っていたという。

遠い昔の話ではない。

真冬に、あそこで。——そう思ったら、切なくなった。

でも調べていくうちに、また見え方が変わった。

あそこは、女が女を助けた場所でもあった。

産婆と、近所の女たちが、火を焚いて、湯を沸かして、赤ん坊を取り上げた。男は入れない場所だった。

質素な小屋だったのは、たぶんそれでよかったのだと思う。立派に作れば「女のためにあんな金をかけて」と言われて、続かなかったかもしれない。

そこで、山姥の言い伝えを思い出した。お産を助けてくれた人には、福が来る。

昔の人にとって、お産を助けるというのは、それくらい大きな行いだったのかもしれない。

そして——家に帰れば、また働かないといけない。それも、同じ女ならみんな知っていたと思う。大変さを、身をもって知っているのだから。

だからあの小屋の中では、軽口や、ちょっとした愚痴を、明るく話せたのかもしれない。

笑い声も、していたかもしれない。

切なさが、あたたかいものに変わった。

怪談を違う目線で見ると

有名な怪談を改めて思い出してみた。

お岩さんは夫に毒を盛られた妻。お菊さんは主人に殺された下女。どれも女がひどい目に遭わされた話だ。

私はずっと、「女は念が強い」と言われているのを、そのまま鵜呑みにしていた。だから幽霊は女が多いのだと思っていた。

でも、声を上げる方法がなかった人の話が、そういう形でしか残らなかったのだと思った。化け物にならないと記録されなかった。

だから残ったとも言える。

怖がったのは押し付けた側の後ろめたさ

ここまで来て見え方がまた変わった。

念が強い。怖い。それは逞しさの裏返しだ。弱いと思われていたら化け物にはされていない。

そしてもうひとつ。

化け物として押し付けたから後ろめたさが生まれて、それが怖さになって残ったのだという見方もできる。

怖かったのは、女の念ではない。自分たちがしたことのほうだ。

女の人たちは何があってもそこで生き続けた。そこで生きるしかない。化け物と呼ばれても、穢れていると言われても、子を産んで、育てて、働いて、人を看取って。

泣いたり、笑ったりしながら自分の人生を歩いた。

その逞しさで生きてくれた人たちがいたから、今の私たちがいる。

学校で習った言い切った人

そこで思い出したのが、与謝野晶子だった。

「君死にたまふことなかれ」。学校で習ったとき、驚いたのを覚えている。

日露戦争のさなか、弟が旅順の要塞へ送られた。1904年のことだ。そこで彼女は「死なないで」と書いた。

詩の中で母は嘆いて白髪が増えていく。母には嘆くことしかできなかった。

でも晶子はそれを言葉にして世に出した。

習った授業の先生は女性だった。「当時はお国のためにと言うのが当たり前だった。その中で、女性がこれを言えるのはすごいことなんだ」と、熱く語っておられた。

だから今も鮮明に覚えているのだと思う。

晶子は実際、国賊だと激しく批判された。そして、こう返した。

歌は歌である。誠の心をうたわない歌に、何の値打ちがあるのか

こんなことを堂々と言える女性がいたんだと、子どもながらに思った。

言い切った人は、同性からも怖がられたかもしれない

政子も、晶子も、周りが許さないことをやった。

男から圧があったのは、想像がつく。でも私は、同性からの圧もあったんじゃないかと思う。

自分に想像のつかない行動は予測できなくて怖い。「あんなことをして」と言った女の人も、きっといたと思う。

それは、昔の話だけではない。

痴漢に遭った話を聞いた時、いちばん傷ついたのは女性から言われた言葉だったという人がいた。「そんな格好で歩いているあなたが悪い」と。

そう言った人は「私はあんな格好はしないから大丈夫」と思いたかったのかもしれない。

同性からの批判はきつい。でも圧に負けずに動いた人が、どの時代にもいてくれた。だから少しずつ今の土台ができてきたのだ。

私は自分の力で生きていきたい

ここからは、自分の話になる。

私は結婚しているけれど自分の力で生きていきたいと思っている。

途中でそれを忘れてしまったときもあった。そして——その忘れたことが自分のしんどさを生んで、結局は自分を苦しめたと思っている。

何かがあったわけではない。離婚がしたいとか、そういう話でもない。

ただ、気持ちが自立していないと、本当の自由から遠くなってしまうと、私は感じる。

だから今も、自分の力で生きていける力をつける努力をしている。途中で寄り道をしてしまった分、より一層に一生懸命になっている。

体も気持ちも

温泉に通うようになって、体が自分で温まり直す力を取り戻していくのを見てきた。

温めてもらうのではなく自分で温まる。

「自分で」というのは、そういうことだと思う。体も気持ちも。

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また生まれ変わっても女性に生まれたい

私は女性に絶望していない。

また生まれ変わっても女性に生まれたいと思っている。たぶん女性の強さを信じているからだと思う。

こう思える自分がいるのも頑張って生きてきた女性の歴史の裏側を見たからかもしれない。

沢山の人は名前は残らなかった。

でもその人たちにも毎日があって笑った日があって逞しく生きてくれたから、今の私は選べる。

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