「温泉にでも行こうよ」と、息子を誘い出した
令和二年の七月、世の中がコロナで落ち着かなくなってきた頃の話。一人暮らしの息子は外に出ることもできず、リモートで仕事をしながら数時間おきに体温を測るという生活を続けていた。ある日電話をすると少し様子がおかしくて、あまり外出しないようにと言われていた時期ではあったけれど、遠くで一人きりの息子がどうしても心配で「温泉にでも行こうよ」と誘い出すことにした。
宿が閉まっているわけでもなくホテルの予約もちゃんと取れるので、ルールを守って迷惑をかけないように動けば大丈夫だろうと考えて、行き先は草津温泉に決めた。夫がホテル櫻井を予約してくれたので、途中で息子を車に乗せて、三人一室で泊まる段取りで草津へ向かった。娘はこのとき仕事でどうしても来られず「息子が心配だから三人で行かせてね」と伝えて出かけた。車の中でもマスクを外そうとしない息子を見ていると、あまりの神経質ぶりに正直すごく心配になった。
町に入ったとたん、硫黄の香りに驚いた
草津温泉はこれまで行ったことのない温泉で、硫黄の香りがこんなに強い温泉に入ったことがなかったので、町に入ったとたんに広がる香りにまず驚いた。それと同時に、ものすごく観光の町であることにも驚いた。
ホテルに着いてから湯畑や町を見たくて三人でぶらぶら散歩に出たけれど、素敵な観光地で、見て歩くだけでもとても楽しかった。コロナの頃だったので人はきっと少ない方だったと思うけれど、それでもずいぶんたくさんの人でにぎわっていた。湯畑から立ちのぼる湯けむりと、目の覚めるようなエメラルドグリーンのお湯は、写真で見ていた以上に見ごたえがあった。あとで知ったのだけれど、湯畑から湧き出すお湯そのものは無色透明で、あの緑色は木の樋を流れ落ちていく途中で、溶け込んだ硫黄などの細かい成分が光を受けて生まれる色なのだという。お湯に色がついているのではなく光が作り出している色だと知って、なおさら不思議なお湯だなあと思った。


湯畑のそばには石段があって、その先を上っていくと光泉寺というお寺がある。奈良時代のお坊さんが草津で祈ったら温泉が湧き出したという言い伝えの残るお寺だそうで、そんな話が今も伝わっているところに、草津というお湯の古さと、長く大切にされてきた土地の空気を感じた。

行くまで知らなかったけれど草津温泉はかなりの高地にあって、そのおかげか道の途中では高地野菜が売られていて、どれもとても甘くておいしかった。帰りにはこの野菜をたくさん買って帰ったけれど、特にキャベツの甘さは今でも忘れられない。
板でお湯をかき混ぜる、草津の「湯もみ」
草津には昔から独特の入り方があると聞いていて、歌を歌いながら長い板でお湯をかき回すあの光景が気になっていたので、あらためて調べてみた。
あれは「湯もみ」という草津だけの文化だった。草津の源泉は五十度近くもあってそのままでは熱くて入れないけれど、水で薄めるとせっかくのお湯の効き目が落ちてしまう。そこで昔の人は、水を足す代わりに長い板でお湯をかき混ぜて温度を下げる方法を考え出した。板でもむと温度が下がるだけでなく、お湯そのものがやわらかくなるとも言われている。

歌っていたのは「草津節」で、大勢で板をもむときにみんなの調子を合わせるために歌われていた。「草津よいとこ一度はおいで」というあの節に掛け声をそろえてもんだほうが作業も進んだのだと思うと、昔の人の知恵だなあと思う。今はこの湯もみが「熱乃湯」という建物で、踊りとあわせたショーとして見られるようになっている。
入ってわかった、力のあるお湯
散歩を終えてからホテルのお風呂をゆっくり堪能したけれど、これがまた素敵なお風呂で、お風呂好きの息子は滞在中に何度も入っていた。
入っていて感じたのは、肌がすべすべになるようなお湯ではないということで、それよりも「これは力のあるお湯だ」とはっきり思った。あとで調べてみたら、草津のお湯は強い酸性で殺菌の力がとても強いことで知られていて、源泉に釘をつけておくと十日ほどで溶けてしまうほどだという。切り傷や皮膚の悩みに昔から効くとされてきたお湯で、有馬・下呂と並ぶ日本三名泉のひとつに数えられ、「恋の病以外はなんでも治す」とまで言われてきたそうだ。あの体で感じた強さには、ちゃんと理由があった。
ただ、そんな草津の湯でも、恋の病だけは治せないらしい。草津節に「お医者様でも草津の湯でも 恋の病は治りゃせぬ」とある。あれだけ効能自慢のお湯なのに、最後にちょっと笑わせてくれる。粋な言い伝えだなあと思う。

そうしてお湯に入って落ち着いてきた頃、張りつめていた息子の様子も少しずつやわらいできて、いつもの表情が見られたときにはすごくホッとしたのを覚えている。
あとで知ったのだけれど、草津の硫黄のお湯は、皮膚だけでなく血のめぐりや冷え、関節のこわばりなど、体全体にいいとされるお湯だそうだ。更年期に入って関節がこわばりやすくなった私には、こういう効能もうれしい。
そして同じ草津でも、湧き出し口(源泉)によってお湯の強さが少しずつ変わる。だから宿を選ぶときは、それぞれの宿がうたっている泉質をチェックして、自分に合うお湯を選ぶのがおすすめ。せっかく効能を期待して行くなら、その違いを知っておくと宿探しもぐっと楽になる。
♨ 草津の強いお湯をしっかり堪能したい方へ|ての字屋 私が写真を撮ったこの白旗の湯と同じ源泉に入れる、江戸末期創業の老舗。白く濁る本格的な硫黄のお湯です。草津らしい力強いお湯を味わいたい方に。
♨ 効能は楽しみたいけれど、強いお湯は負担という方へ|元湯 泉水館 草津では珍しく、強い酸性ではない肌にやさしい自家源泉の宿。刺激が苦手な方や、のんびり長く浸かりたい方に。
じゃらん派の方はこちらから:元湯 泉水館(じゃらん)![]()
このほかにも、草津には源泉かけ流しの宿がたくさんある。もっと探したい方は、源泉かけ流しで絞った一覧から選べます。草津でいちばん酸が強い「万代源泉」に入れる宿もありますよ。
じゃらん派の方はこちらから:草津の源泉かけ流しの宿(じゃらん)![]()
いつもの表情が、戻ってきた
夜は家族三人でゆっくり食事とお酒を楽しんで、久しぶりにそろって囲む食卓は気持ちのいいものだった。
翌朝は家族全員が朝方の人間なので、早めに起きて朝風呂を楽しんでから、朝ごはんまでの時間に人の少ない湯畑を見に行こうと三人で散歩に出ることにした。その散歩に出る前、息子がフラッと部屋を出ていったので何か買いに行くのかなと思っていると、三十分ほど戻ってこない。戻ってきたところで「どこ行ってたの?」と聞くと、「人のいない景色がきれいで、つい散歩してしまった」と言う。息子らしい行動に思わず笑ってしまったけれど、車の中でマスクを外さなかったあの子が、朝の景色に見とれて散歩してくるまでになっていた。そのあとの散歩にも一緒に行くというので、三人で人の少ない道をぶらぶらと楽しんだ。

コロナの頃はどうしても孤独になりがちで、若い子が一人で追い詰められていないかというのがいちばん心配だったので、いつもの表情がまた見られたときには本当に安心した。
白根山の迫力
朝ごはんを食べて宿を出てから、白根山まで車で足をのばした。草津温泉以上の硫黄の香りのなかでもくもくと煙を上げる山は、これまで見たことのない姿で、すごい迫力だった。山をゆっくり楽しんでから息子を家の近くまで送り届けて、無事に届けたところでこの旅は終わった。

また、落ち着いた頃に
草津のお湯は体にびりっと響くような力のある温泉だったけれど、あの二日間でいちばん効いたのは、お湯そのものよりも家族で同じ時間を過ごせたことだったのかもしれない。また落ち着いた頃に、今度はゆっくり湯もみも見に行きたい。
それに、次はこの土地のごはんもゆっくり味わってみたい。群馬にはおっきりこみや焼きまんじゅうといった郷土料理があって、草津の高原で育つ花豆も気になっている。温泉で体を整えて、その土地のものをおなかに入れて帰る。そんな欲張りな楽しみ方も、次はしてみたいなあと思う。
花豆のお菓子なら、光泉寺の門前通りにある清月堂が大正時代から続く老舗で、花豆の甘納豆が名物だそうだ。ほかにも草津で食べられるものは草津温泉観光協会のグルメページにまとまっているので、行く前にのぞいてみるのも楽しい。
※この記事は個人の体験・感想をもとにしています。設備や営業情報は変わることがあるので、最新は施設にご確認ください。
そのほかの温泉の記録は、温泉めぐりのまとめからもたどれます。

